その音を聞きたくない

その記憶を見たくない

その想いに触れたくない

あの悲哀だけは 繰り返したくない――






――光を一切反射しない黒の地面に、
落ちていた鉄の棒の先をこすり合わせる。
地面はザリザリと乾いた音を立てて様々な線を描き出していった。

奈色の青、悲刺はその行動を虚ろな表情で行う。
乾いた音が止まったとき、そこに書かれていたのはたくさんの文字。

" 悲 刺 "

"アイ" "クビ" "ロウ" "イシ"

"イタイ" "マッテタ" "ユメ" "フタリ"

"さようなら"


 「……。どういう意味だろう。」
悲刺は困った顔で首を少し傾げる。

時々脳裏に浮かぶ言葉を書き出してみたのだが
後半のカタカナはともかく前半のカタカナは色々な漢字に置き換えられる以上
どうにもモヤモヤ感が増すだけである。

ただ、ひどく悲しいものを感じる。

悲刺は手で文字を払い消す。
最後に"悲刺"の字が残った。

 「悲しい……刺す……。ひさ……。」

酷い名前だ。
救いも希望も慈悲ない呪われた名前だ。本当に。

"なぜ自分は存在するのだろうか――?"
答えのない問いが脳内で霧散した。

 「あ……また泣いちゃった。」
じっと自分の名前を見ているうちに泣いてしまったらしい。
 (この程度で泣いちゃ駄目なのに。)
悲刺は軽く目を擦り涙を拭き取る。
 (また落紫くんを心配させて葉牙ちゃんに怒られちゃう。)
脳裏に義妹と義弟の顔が浮かぶ。

悲刺は最後の文字を払い消した。



――――



 「悲刺は人殺し嫌いだよね。」
奈色の黒であり義兄の焉刃がニコニコと笑いかけてきた。
先程、今彼女がいる彼女の屋敷……の台所。
確かに悲刺が棚の砂糖を取りに行くまではいなかったはずだが、
今は焉刃が物珍しそうに台の上の物を手に取りながら当たり前のようにそこにいた。
 「……焉刃さん。何か御用ですか。」
悲刺は少し緊張した面持ちで焉刃にそう問う。
しかし焉刃は変わらずニコニコと笑顔である。

しかし、唐突に動き出し、近くにあった椅子に腰掛ける。
その手にはしっかりと悲刺手作りのウサギの人形が握られている。
 「悲刺は器用だねぇ。私が作るとどうしてもどこかから綿が出ちゃって。」
と、先ほどの発言を無かったかのように人形の手足を動かしたりしながら焉刃が過去の話を持ち出した。
悲刺は少し安堵の息を吐きながら焉刃に近寄る。

――彼は暫く前から精神に異常をきたしている。
そのため異常時と平常時で精神にムラが生まれてしまい
異常時にはどんな過激な行動をするかわかったものではない。
しかし今は平常のようである。

この様子なら"あの名"を言わなければ問題なさそうだ。

 「焉刃さんの場合はもう少し長めに糸を取らないと……」
 「そうなんだよね。すぐ途中で糸が足りなくなるんだよ。
でもねー。あんまり長いとすぐ絡まるからね。そこが心配で。」
 「あとサイズが合わないからって適当な布をツギハギするのもどうかと」」
焉刃はうーんと人形を持ったまま腕を組み唸った。
 「それは底の丸い所のサイズが全然合わなくて」
 「ちゃんと計算しなきゃダメです」
 「やっぱり?……はぁ。難しいものだよね。」
 「慣れれば結構楽しいものですよ?」
悲刺は自然に笑顔になる。
こういう当たり前のような穏やかな会話が彼女はたまらなく好きだった。
ずっと昔に落紫の突然の思いつきで行われたぬいぐるみ作成大会が色鮮やかに脳裏に蘇る。

布カエル像を作ろうとしたものの、
糸が足りず布の大きさも足りずで結果、カエルというより不格好なマリモみたいなものを作ってしまった長男の焉刃。

焉刃像を作ると言い出したものの、適当に適当を重ねた結果、
ハギレと散らばった綿しか残らず形にすらならなかった奈色の次男の刻赤。

見事に鳥の人形を作り上げたものの、
「これは極楽鳥なので」とか言い出していろんなキラキラした飾りをつけ出して、
結果的に飾りの重さで自立できない代物にしてしまった三男の切流。

作る事に興味を示さず、切流の作った極楽鳥を取り上げ 、
針を刺しまくった末に再生不能レベルにボロボロにしてしまった次女の葉牙。

自分で言い出したものの結局上手く作れずに少し涙目になっていた四男の落紫。


そして、―い布を使って―――な―――を作った――――。



 「悲刺、今日は何作ったの?」
現実の焉刃の言葉で悲刺ははっと我に返る。
焉刃はいつの間にか椅子から降りてヤカンを指さしている。
 「あ、それは紅茶ですよ。今クッキーを作っているので一緒にどうかと。」
 「へぇ。」
焉刃は何が面白いのかジッとヤカンを覗き込む。
そして唐突に、


 「ねぇ、悲刺は誰かを殺すの、本当に、嫌い?」


優しい優しい笑顔で彼は問いかけた。
一瞬焉刃といつも鏡で見ている自分の姿が重なる。


一瞬で世界は反転し、時間が停止する。
そして、自分の背後に血塗れの誰かの死を求める自分が笑いながら歌うように愉快な声で喋る。

――だって私は悲刺だもの。

――人を殺すための存在だもの。

――拒絶するのは"私"の勝手だけど、


――"私たちの手はずっとずっと前から貴女の意思で真っ赤に汚れてるんだよ?"




 「!!!!!!」
 「悲刺……?どうかした?」
焉刃が少し心配そうな表情になる。
解ってる。焉刃が何気なく聞いただけだと。
奈色としての行動を否定する悲刺の考えが気になるだけなのだと。
けれどその言葉は確かに悲刺の悲刺でない所に触れた。

それを自覚しながら、ゆっくりと顔を上げ、

 「どうも……してません。
それに私が誰かを殺すのが泣くほど嫌いだって、知っているじゃないですか。」
焉刃は少し不思議そうな顔になりながら、
 「そうだよねぇ。なんで私そんなこと聞いたんだか。」
とつぶやく。

微笑を浮かべるその悲刺の顔には
一切涙は浮かばなかった――。



――そう。私は人を殺すのが大嫌い。

当たり前の何でもない時間を繰り返すのが大好き。

それを壊すものがとても嫌い。

だから絶対に大嫌いなんだって。



そう、信じているの